最新随筆
コロナ禍についての考察
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新型コロナによる感染症が病気としての「枠」を越え、社会現象までもを引き起こす「禍」となったのはなぜなのか?病気としての流行、即ち、感染者数や死亡者数で判断するなら、これまでも、そして今でさえ、もっと深刻な病気は多々存在している。しかし、それらの病気は「禍」にまで発展していない。人間、生まれれば、死んでいく。当たり前のことだ。今まで日本では、毎年100万人以上、毎日3千人以上が、粛然従容として死んできた。新型コロナ(以下コロナ)は一体何が違って、ここまで大騒ぎし、死のリスクを恐れワクチンや治療薬を求めるのであろうか?
新型コロナによる病気としての症状は肺炎であるから、まずは肺炎の現状を分析してみよう。厚労省資料によると、肺炎は死亡原因の第四位。年間およそ10万人が亡くなっている。昨年2019年度は95518人であったようだ。その内、約25%は肺炎球菌が起因で、インフルエンザ菌[1]や肺炎マイコプラズマも5-10%くらい存在している。数で言えば肺炎球菌だけで年間2万人以上死んでいることになる。
肺炎以外に目を転じると、やはり多いのはガンだ。呼吸器系のガンで75394人が死んでいる。大半は肺癌であろう。意外な所では転倒・転落・墜落で9580人が死んで、不慮の窒息(モチでもノドに詰めたんでしょうな)でも8095人がなくなっている。誤嚥性肺炎が肺炎とは別立てになっていた。俗に「気管に入った。げほっ、げほっ。」ってやつだな。これが原因でも40385人が死んでいる。なんか、もう、死のリスクを恐れるなら、外出や食事もヤメたほうがいいんじゃないかって気にすらなってくる。コロナで死ぬ前に、道を歩けば転んで死ぬし、飯を食べれば窒息か誤嚥して死ぬんじゃないかと思う。年間のコロナ死亡者がたとえ10倍になっても確率で言えばそうなる。
何かがオカシイと思っていると再び医療崩壊が叫ばれだした。春頃にも散々マスコミや医療界隈が煽っていたような気がするけどその時は崩壊しなかった。ここに来て再び、コロナ患者が病床を圧迫し、医療器具はおろか、医師や看護師も不足しているそうだ。
なんで?
先に分析した統計によると今までも肺炎だけで10万人が死んできた。肺癌と他の呼吸器系疾患を加えれば20万人を超えている。死んだってことは当然その前は重症患者であったわけだ。それでも昨年までは用具も人員も足りていた。今年に入って1%(コロナ2000人/肺疾患200000人)の変動に耐えられないとか、そこまで用具も人員も無駄のない効率化を達成していたなら驚きでしかない。更に言うなら今年は感染症による受診者が激減している。手洗い・マスクの徹底で実際に患者が減っているということもあるだろうし、コロナ認定を恐れて少々の病気では病院に行かなくなったという例も多いだろう[2]。普通に考えれば医療が崩壊するなんてことはありえない。コロナへの特別対応にはどれだけのコストが掛かっているのであろうか。これは他の疾患と比べて見合っているのであろうか。
病院ではなく患者目線で考えるとどうだろうか?コロナは肺炎の起炎菌[3]であった。そして肺炎の起炎菌としての第一位は肺炎球菌で、こいつで年間2万人以上が死んでいることも先に述べた。さぞかし危険な病原で治療困難かと思いきや、なんと!ありふれた存在で、ワクチンまであるらしい。しかも、高齢者は定期接種が推奨されていて公的補助まで出るときている。それでも、接種率は一番多い65歳から75歳で40%程度にとどまり、半数以上の高齢者は接種していない状況である。一般の人間になるとワクチンの存在すら知らないし、当然ながら接種率はほぼ0%ではなかろうか[4]。
どういうこと?
以下、こんなところでしょう劇場。
ある葬式での会話。
「お祖父ちゃん、死んじゃったけど大往生だったよね。」
「80歳でしょ。死因は?球菌感染による肺炎?ふ〜ん。」
「肺炎球菌にはワクチンがあって予防できたらしいよ。」
「そうなんだ。でももう、体も弱ってたし、どっちみちなんかの病気で死ぬよ。十分長生きしたし幸せだったと思う。」
ある家庭での会話。
「おばぁちゃん。おばぁちゃん。日本では年に100万人以上死んでるの。でね。10万人は肺炎で、さらに2万人は肺炎球菌が原因なの。そんでね。肺炎球菌にはワクチンがあるの。さぁ、打ちましょ。」
「ありがとう。でも、もう年だからねぇ。結局病気したら死んじゃうわよ。ワクチンで肺炎球菌にかからなくても、インフルエンザ菌による肺炎で死んじゃうし、インフルエンザ菌でなければ、マイコプラズマ・ニューモニエによる肺炎で死んじゃうよ。それに肺炎以外で死ぬ可能性だって高いし、そこまでしなくても結構ですよ。」
このおばぁちゃんはちょっと知識がありすぎて不自然だけど、高齢者にとって「結局病気したら死んじゃう」は一般的な考え方に思われる。自分が70歳になったとしてもいちいちワクチンは打たないと思う。肺炎球菌ワクチン、インフルエンザワクチン、狂犬病ワクチン、日本脳炎ワクチン、肝炎ワクチン、水痘ワクチン、骨髄炎ワクチン、、、切りがない。適度な運動と十分な食事や睡眠で健康な体作りを心がけるほうがよほど効果がありそうだ。混乱耐性50%の兜、毒耐性50%の鎧、麻痺耐性50%の盾、魅了耐性50%の小手を装備するより、 HP50%アップしたほうがダンジョンでも生き残れるぞ。
季節性インフルエンザ(以下インフル、もしくは、インフルエンザ)はどうだろう。年間3000人以上の死者を出し、超過死亡概念(インフルが原因で間接的に死んだ)で考えると1万人が死んでいる。毎年1000万人が罹患し、1万人が死んでいるのにやはり予防接種率は50%もない。インフルエンザ脳症っていう重篤な合併症があって、一昨年は50人くらいが後遺症まで残しているようだ。コロナで子供の後遺症とかが発表されたら、発狂しそうな社会情勢だけど、小学校でのインフルエンザワクチンの集団予防接種っていつのまにかなくなっちゃったよ。なお、インフルワクチンの有効率については諸説あるようだが、おおむね50%と見積もられているようだ。全員が接種すれば患者数や死者数を半分にはできる計算。コロナは?今の死亡数で大騒ぎしてるのだから、この程度の有効率ではお話にならないだろう。[5]
ワクチンを摂取したからと行って罹患しないわけでもなく、症状が軽くなることが保証されるわけでもない。そうなると、ほとんどの人は気にしてこなかったわけだ。仏教思想と言うか、諸行無常と言うか、そう言う死生観だったんだね。高度経済成長期、空気感染する結核で何万と死んでたけど、強烈なスシ詰めで通勤してたわけだし。
考えれば考えるほどおかしい。オカシイ。病人目線で言ってもコロナ程度の死者数で大騒ぎする必要はないし、コロナ禍って大騒ぎすればしただけ医療提供者は特別対応に忙殺されるだけ。数字的には起こりえないはずの医療崩壊だとか言われている。騒ぎは社会問題になるくらいに加速しても、過去や数字を見て冷静になる気配はない。今までも沢山の人が死んできた。そして医療は十分であった。保健所も病院も無駄として減らされることのほうが多かったくらいだ。矛盾と不合理が存在するのは誰かが嘘を着いているから?
私こと銘探偵ランベルト岳による大胆推理。
- 厚労省がウソをついている。実は肺癌や肺炎の死者なんて年に100人くらいだ。そうなると、コロナの2000人は未曾有の危機ですな。
- 医者がウソをついている。本当は感染症患者が減って余裕綽々。あっ、でも忙しいことにしとこう。補助金が出るかもしれんし。
- 患者がウソをついている。大したことないけど重症の振りをしてたら、大げさな治療されて逆に死んじゃった。てへ。
いや、そんなことはない。彼らが嘘をついているとは考えにくい。そもそもウソをつくべき理由がない。と、なれば、仕掛け人によって虚構が巧妙に実在化されたのかもしれない。そして、そんな仕掛け人がいるなら、実はそこになんらかの利益があるからであろう。
黒幕説は好きじゃない。大抵はただの憶測で荒唐無稽だ。変な犯人探しをする前に、単にパニックになっているだけとしよう。関東大震災後に朝鮮人虐殺が起きたり、ハレー彗星出現時にタイヤチューブを買い求めたり、パニックになると人間は不合理な行動を引き起こす。しかしながら、ある程度の時間をおいて、冷静に考える時間を与えられるとパニックはすぐに治まるものである。暴動みたいなものは長続きしない。殺人などあえて不合理で人道に矛盾する行為が、冷静に考えられた上で継続される例としては国家による戦争が挙げられよう。しかし、これはパニックではない[6]。この場合、やはり仕掛け人がいて、仕掛け人なりの利益や打算が存在している。
コロナはすでに一年たった。冷静になれる時間がなかったとは思えない。コロナの一年間での死者は3000人に満たない。肺炎で10万人が亡くなり、肺癌でもやはり同じくらいなくなっている。呼吸疾患以外も考えれば、転倒や喉詰めでさえそれぞれ1万人死んでいる。ここまでわかっていて、未だパニックとは考えにくいのでやはり仕掛け人がいるのであろう。
コロナ禍の仕掛け人とは誰であろうか?一体、どのように状況をコントロールし利益としているのであろうか?
コロナで好景気と言えば、通販業界。アマゾンなど過去最高の売上を記録したそうだ。ゲーム業界も儲かっていると聞く。こういったインドア需要を満たす企業にとってコロナ禍はありがたいだろう。コロナ禍の継続を願っていてもおかしくはない。しかし、流石に偶然による受益者だろう。彼らがコロナの死者数や後遺障害などを喧伝して社会を操っている節はない。であらば、マスコミか。巣ごもりが増えれば視聴率が上がる。また、それなりに世論をコントロールできる立場にある。そう言えば、マスクだって鼻までしっかりと密閉しないといけないはずだったのに、テレビではいつの間にやら口元を覆うだけのプラシールドで大丈夫なことになっている。町中では通行人さえマスクをしているのに、マスクの重要性をアピールするコメンテーターは、スタジオで間隔を空けたり仕切板があればマスク無しだ。商店街まで出向いて「密です」なんて報告するリポーターにも矛盾を感じる。でもなぁ。これも弱いよなぁ。今どき、情報源はマスコミだけじゃない。ネットニュースやSNSによる情報収集も盛んな現在、マスコミに踊らされるほど民衆は馬鹿じゃない。自民や二階?アホらしすぎる。観光業界との癒着や意図的な利権もあるだろうが、そもそも旅行産業や飲食産業が大打撃を一番被っている。
そこではたと思い当たる。
果たして自分はどうであろうか?
コロナ以降で、収入が減ったわけでもない[7]。生活レベルが落ちるどころか、生活に支障が出ることもない。物価が安くなって、高かった食材がスーパーで安売りされるようになるなどメリットの方が多いくらいだ。大阪、中でも西成はゲストハウスだらけであったが、あれだけ多かった中国人も全くいなくなって静かになった。海外旅行に行けないのは不満だが、国内旅行は割安だし何より空いている。夏に一ヶ月北海道を旅行したが、キャンパーにとっては超快適であった。密になる要素もない。あかん。私はコロナ禍の受益者だ。明らかにデメリットよりメリットのほうが大きい。ランベルト岳は探偵のフリをした犯人であった。
そして周囲に目をやると、大半の人間はコロナ以降で収入が減っていない。そう、コロナによる収入減なんて今の所たった三割と圧倒的に少数者なのだ。収入が減らず生活に支障がない人間には、それだけで物価面と、10万円配布やGoToなど政策の面だけメリットがあることになる。年金生活の高齢者にとってコロナ禍は実にメリットが大きい状況であることがわかる。世の大半のサラリーマンだって給与が減らなければ、自宅勤務で通勤しないで済む分だけありがたい状況だ。受験戦争が終われば、通勤地獄が始まった。コロナ禍は地獄からの開放に等しい。専業主婦(主夫でもいいけど)だって同じだろう。わざわざ気を使う夫の実家になんて帰省したくないんだ。「本当は行きたいんだけど、、、ごめんなさい。」なんて善意を装えるおまけ付きだ。ついでに言えば、PTA会議や煩わしい学校行事がなくなったことも嬉しい限りだろう。政治家だってそうだ。コロナ禍で困ることなんて何もない[8]。彼らに民衆の痛みなんてわからない。政治家こそがまずは身を切れとはよく言われるセリフ通りだ。でも、そんなこと言ってる人間も実は大半が三割の辛さなんてわからない無意識の受益者だったのだ。
コロナ禍の構造がハッキリとしてきた。
国民の多数派が実は受益者であり、「コロナ禍が継続したほうがいい」のである。メリットのほうが大きいので積極的にコロナ以前に戻そうなどとは思わない。むしろ意図的に大騒ぎしてコロナ禍を演出したほうが理にかなっているのだ。大騒ぎは表面上「コロナ禍の収束」を謳っているところがなんとも巧妙なカラクリである。
コロナ以前に戻りたいですか?
「コロナに負けるな。」もちろん、こんな発言にも本心はあろう。しかしながら、好意的に言っても「コロナ以前に戻ってもいい」という消極的な肯定であって、同程度に「コロナ以降のこのままでもいい」と思っているはずだ。「なんとしても戻りたい(戻したい)」という意見は多数の声として聞こえてこない。
多数の人間が自分も受益者であることを意識し、そのメリット部分を素直に告白しなければコロナ禍は収束しない。
「今日、スーパーでこんな大きなサザエが安売りしてた。」
笑う裏には、泣かざるを得ない生産者や料亭のコック達がいるのだ。
「無駄な通勤が減るのはいいことだ。」
喜ぶ裏には、悲しむキオスクや駅ソバ屋があるのだ。
ほとんどの人にとって始まりは偶然の受益者であった。そして、自分が受益者であることを意識すらしていなかった[9]。しかし今や人々は自覚することを封印してしまったように思える。なぜなら、非常にわかりやすいデメリットでメリットは帳消しにされたと思い込めるからだ。
「コロナで不便になったわよね。以前の生活に戻りたいわ。」
しかし、七割の多数派にとってこれは口先だけである。よくよく考えればメリットの方が大きいのだから実に都合の良い免罪符になっている。表層で被害者ぶってデメリットを強調しながら、メリットを隠しておく[10]ではコロナ過が解決するわけがない。本当の被害者は不便なんかは当たり前の上に、収入が激減したにもかかわらず過労にまで追いこまれる人たちだ。
そもそも、社会が変わったんだ。栄枯盛衰。潰れる職種は潰れる。突き放すのもいいだろう。七割の人間には三割の人間を抹殺する権利がある。「コロナに罹ってももいいから仕事が欲しい」と言う西成の労働者に、「今はみんなで耐えよう。感染者が減れば元通りですから」と市職員は平然と言える。無茶苦茶素敵な正義の理論だ。収入が変わらず通勤も無くなったトヨタ社員は、収入を失い職安や面接に通うJTB社員に、「感染拡大を食い止めるために出来る努力はしましょう」と悪気を感じることも無く言えるのだ。これは社会の意思なのだ。多数派の盾は強固である。ダイヤモンド製で砕けない。
12/9時点のデータで2123名のコロナ死亡者のうち60%は80歳以上であった。 25%が70歳代で10%が60歳代である。現役世代なんて5%以下100人も死んでいない。こうなると、コロナで死ぬのは殺人事件の被害者になって他殺されるより難しい。 50歳以下に限定すると死者は31人のみだ。妊娠での死亡が32名だから、若い人間はエッチなことをやめたほうがよろしい。高齢者ならいざ知らず、若年層でさえ僅かなリスクを傘に、三割以下の(逆に言えば三割もいる)本当の被害者を無視して気に病まない。タイムリーなことにGoTo施策が一時停止になったようだ。今更、意外に思うことはないが、中止賛成派は約7割で収入に変化がない多数派の率に等しかった。もちろん、中止反対派は収入が減った人達だろう。綺麗な数の一致である。医者はいい迷惑かもしれない。コロナは重大な疾患であらねばならない。国民の期待のまま過剰な責任感を押しつけれれているように見える。政府は経済を優先したいようである。たった31名の死者である労働人口の中核を自粛させたくはないだろう。それでも多数派の声には逆らえない。
コロナ禍の真犯人は七割の国民であり、コロナ禍が収束しない原因は彼らが隠れた受益者だからである。国民の窮乏が叫ばれる中、本当の被害者は実は少数派で三割しかいない。多数の国民にとってコロナ禍とは実際にはコロナ益であったのだ。
認知革命?
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話題の『サピエンス全史』がしっくりこない。そういう説明の仕方も出来るよねとは思うが、議論は新規性に乏しく感じるし、今更的なことを万人受けしやすい言葉で書いているだけに見えてしまう。
同書では「虚構」をキーワードに神話や法人の成り立ちを語り、虚構を信じ込める能力を認知革命として、人類史における一大事変としている。これはこれで間違ってはいないと思うが、だからどうしたとも思うのである。更に言わしてもらうならば、なぜ認知革命が起こったかの説明をしていない。私が思うに、現生人類[1]を成功に導いたのは傑出した「想像力と創造力」である。結構昔から言われていることで、人類の本質が「想像性と創造性」にあるとの説は新しくもなんともない。想像力とは未来を見通す力であり、大半の動物が現在のみに生きている中で、人類は遠い将来を予測する能力を持ち、計画を立て、場合によっては今を犠牲にすらできる。そして、未来とは然るべき時まで存在していないのであり、将来予測は、存在しないオバケを想像して怖がるのと同じことである。[2]
創造力についても想像力と同根だ。石器一つとっても、形状を思い浮かべ、割れ方を予測しながら作り出す。予測が、心に向かえば「想像性」と呼ばれ、物に向かえば「創造性」と呼ばれる。結局、想像力も創造力も広い意味では予測力であり、高次の脳機能を駆使して実現前の状況を推し量る技能である。もちろん、これを妄想力や思い込みと呼ぶことは自由である。
サピエンス全史では認知革命が起こったのは7万年前であるとされている。人類史で7万年前と言われてまず思いつくのは「トバ・カタストロフィ」である。 7万年前、トバ火山による大噴火で地球規模の気温低下が起こり、当時のサピエンス[3]の人口は1万人程度にまで減少した。そして、少人数から再出発したために、サピエンスの遺伝的な多様性は失われてしまった。トバ・カタストロフ理論自体の事実性はさておき、現生人類は遺伝的多様性が低く、ボトルネック効果が観察されることは、統計的に有意な分子生物学の結論である。
サピエンスと想像力については脳科学からの知見がある。他人類に比べて、サピエンスに一番大きな特徴は前頭葉の肥大化と考えられている。化石人類の頭骨は大抵の場合、低くつぶれた形であり、額が傾き後頭部が突出している。対してサピエンスの額は垂直で巨大な前頭葉を収めるのに都合が良い。脳容量自体はネアンデルタール人の方が大きかったらしいが、後頭葉が大きかったり(視覚能力に優れていた可能性がある)、側頭葉が大きかったり(言語能力に優れていた可能性がある)したとしても、こと前頭葉に関してはサピエンスの方が大きかったはずだ。そして、前頭葉こそ諸情報を高次に統合・処理する場であり、ここから「認識」と「想像」が生まれる源泉であることが判明している。さらに現生人類では、A10神経が大脳辺縁系と前頭葉をつないでおり、想像性を発揮することは、快楽や恐怖と言った報酬系と密接に結びついている。
7万年前、サピエンスはボトルネック効果を経験した。この時、生き残ったのは、前頭葉由来の想像力に優れており、かつ、それが快楽や恐怖といった感情とも結びついているサピエンスの一部であった。想像力が生む未来を予測する能力と、それを感性として受け入れる力[4]を持っていたからこそ、彼らはボトルネック効果を生んだ何らかの大事変を切り抜けることができたとも言えるだろう。或いは彼らの生存は全くの偶然であったかもしれない。想像力などという高度な脳機能よりも運動能力や視覚能力に優れていた方が生存に有利であった可能性も高いからだ。いずれにせよ生き残った現生人類の祖先達は強かった。なんといっても想像力は戦争においてその比類なき力を最大限に発揮する。新たな戦術や兵器を作り出す。 A10神経により感情とも結びついているので際限がない。[5][6]
現生人類は想像力に卓越し、神話や法人を生み出すまでになった。未来を予測できることから、たとえ現在に犠牲があれど、その先を見据えることができる。想像性はA10神経を通じて感情と結びつき、共感という共同幻想を夢見ることもできる。『ファンタジーに付き合ってくれないというただそれだけの理由で相手を否定し、抹殺しようとする。[7]』気が付けば周りはすべて滅ぼしていた。現生人類の興隆は今までの定説通り「想像力」にありとしても問題はなさそうだ。記憶を頼りに書いているが、20年近く前には既に言われていたことのはずだ。
以上、想像が虚構であると言えばそうも言えるだろうが、所詮、どの言葉を選択するかというだけの話に思える。数学では2乗して-1になる数を虚数と言う。虚数と言えば実在していない印象を受けるが、英語で言えば'imaginary number'(想像された数)であり、虚が持つ「むなしい」や「ウソっぱち」といった意味はない。自然数以外は、分数や負数も含めて全て人類が想像した数であり、 'imaginary number'「虚数」も普通に数の一員である。原書を読んだわけではないが、「虚構」も元は'imaginary concept'くらいだったのではないだろうか。人類史と認知革命に対して「虚構」をキーワードとしたがゆえに、今までにない新規性を持つかに見えるが、「想像力」と言ってしまえば何十年も前から言われていたことである。
さて、まだ上巻の半分くらいまでしか読んでいないのだが、なんかモヤモヤするので、勢いで書いてしまった。今、第二章の農業革命である。これもなんだかなぁ。「人類は小麦の奴隷である」って、表現はキャッチーだし万人受けはするだろうね。でも、食う食われるの関係なんて見方を変えれば、食われる側が食う側を支配しているとも言える。食べる物がなくなれば食う側は否応なく滅びてしまうのだから。ちなみに、カイコなんて野生種は一頭も存在しない。歩けないし飛べない。交尾も人間がサポートしてやらなければならず、人間の介在なしには子孫すら残せない。それでも、養蚕農家は朝から晩までカイコの世話をして、生計を彼らに依存しているのだから、「カイコの奴隷」と言うことも可能である。全世界のカイコの頭数は人口よりもはるかに多く[8]、人類を奴隷化して最も成功した昆虫と言えるのではないだろうか。、、、と言うのは言ってみただけである。ただの言葉遊びである。どうとでも言えるという例である。
読み進めるうちに面白くなって来ればいいなぁ。[9]
- [1] ホモ・サピエンスとほぼ同義だが、狭義では後述するボトルネック効果を生き抜いた者とする。
- [2] オバケが怖いと思えるのも、出会えば酷い目にあう未来の予測とその回避行動である。
- [3] 同書と同じく、生物種としてのホモ・サピエンスの意味で使う。
- [4] おそらくこうなるという予測は感性ぬきには存在しえない。論理だけでは未来は全て未定であり、世界は複雑で確率的にさえ予言できないだろう。
- [5] 想像的活動をしているときの気持ち良さは非常に大きなものである。個人的には、食欲や性欲と言ったものより大きいように感じている。
- [6] ついでに言えば感情は想像力を亢進する。想像することが心地よいのだから、益々想像しようとする。
- [7] 西澤保彦著『神のロジック 人間のマジック』から引用。最近読んで面白かったミステリーの一つ。真相が早い段階で明かされていたにもかかわらずすっかり騙されました。
- [8] 世界の生糸生産量からざっくり計算すると、カイコの頭数は5000億頭になった。人口の100倍である。
- [9] 資源が有限である以上、人口抑制せざるを得ない。しかしながら、これは生物種としての使命に反する。よって、人類にはなんらかの価値革命が必要だろう。同書の結論はここいらあたりになるのではないだろうか。
湯を沸かす
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質問を受けた。「湯を沸かす」と「水を沸かす」では、どちらが正しいの?答えて曰く、「湯を沸かす」が正しい。「水を沸かす」なんて表現は聞かない。、、、と、言ってはみたものの、考えれば考えるほどわからなくなってきた。
「沸かす」と「沸騰させる」は同じ意味である。「ヤカンで湯を沸かしなさい」と言われた場合と、「ヤカンで水を沸騰させなさい」と言われた場合とでは取る行動は同じである。ヤカンに水を入れ、火にかけてお湯にする。同じ行動を促す、即ち、同じ意図を持つ同じ意味の言葉であるにもかかわらず、行為の対象(目的語)は、「沸かす」では「湯」でないとおかしいし、「沸騰させる」では「水」でないとおかしい。「水を沸かす」や「湯を沸騰させる」では違和感しか感じない。ところが、「沸かす」、「沸騰させる」と何度もつぶやくうちに混乱してきた。水を沸かして、湯を沸騰させてもいいんじゃないか?ゲシュタルト崩壊である。認識機能がマヒしてこのままでは日常生活が送れない。
そもそも、「沸かす」ことの本質的な意味は何であろうか?常温で水は液体である。それに熱を加えると、液体の内部から気泡が現れるようになる。水をこの温度にまで熱することが「沸かす」の物理的な意味である。言うまでもないがそれは摂氏100度である[1]。ここで着目したいのは「沸かす」という行為では目的対象が変化するということである。「沸かす」も「沸騰させる」も、水を湯に変化させることを意味している。そこで、変化させるという意味を持つ「より簡単な言葉」から考えてみよう。「作る」と「壊す」ではどうだろうか。目玉焼きを作れば、卵は目玉焼きに変化するし、花瓶を壊せば、花瓶はガラス片に変化する。
「目玉焼きを作る」では、行為の対象は変化後の「目玉焼き」である。卵を元に作るからと言って、「卵を作る」と言ってしまうと意味が異なってしまう。「花瓶を壊す」では、行為の対象は変化前の「花瓶」である。ガラス片になるからと言って、「ガラス片を壊す」では、やはり意味が異なってしまう。物理的な側面(変化の時系列)から考えると答えが出ないため、主観的心理的な側面から考察を進めてみる。つまり、人間の判断として何に価値を感じるかという問題である。卵と卵焼きでは、価値があるのは卵焼きであろう。卵は素材に過ぎない。同様に、花瓶とガラス片では、価値があるのは花瓶である。ガラス片はゴミでしかない。どちらの場合も、価値が高いと感じられる方が行為の対象に選択されている。「建てる」のは「家」であり、木材ではない。「織る」のは「布」であって、糸ではない。「分解する」のは「時計」であって、歯車ではない。対象の物理的な変化を伴う言葉においては、変化の前後で価値が高いと感じる方を目的語に取る。この一般化はそれなりの説得力を持つのではないだろうか。
「湯を沸かす」に戻ろう。湯を行為の対象に取るということは、「湯」そのものに価値を感じているからである。お茶を飲むには「湯」を用意しなければならない。それゆえ、「ヤカンで湯を沸かす」のである。ここでは価値のある「湯」が、「沸かす」の対象になるのである。「水を沸騰させる」ではどうだろうか。水を対象に取るということは、(水の方に価値があるかどうかはさておき)「湯」そのものに価値を感じていないと考えられる。部屋を加湿する場合、湯そのものは必要とされない。それゆえ、「ヤカンで水を沸騰させる」の方がしっくりとくる。湯自体に価値を感じないため、「湯」は「沸騰させる」の対象にならない。
これで、ひとまずケリが付いた。「沸かす」に対して「湯」という言葉が選択されるのは、「沸かす」という行為が価値のある「湯」を作るためだからである。直接的な「湯を沸かす」以外にも、「風呂を沸かす」でもそうだ。主観的な価値を感じさせるものが行為の対象になるのである。そして、「沸かす」と言う表現には、「価値あるものを生み出す」との意図が含まれているのである。反して、「沸騰させる」にはこの意図が存在していない。風呂など沸騰させてはむしろ価値を失ってしまう。作る系の動詞では作られた後の物に価値があり、壊す系の動詞では壊される前の物に価値がある[2]。言わずもがな、「沸かす」とは作る系の動詞(湯を作る)であり、「沸騰させる」とは壊す系の動詞(水ではなくなる)なのである[3]。「沸かす」と言った場合、変化後の「湯」が対象になるのは、作る系動詞の常として変化後に価値が感じられるため当然だったわけである。やっと、ゲシュタルト崩壊からは解放された。これで日常生活において「湯を沸かす」と自信をもって言うことができる。
ところが、最後に、問題が一つ残っている。それは今回の話にオチがないことである。困ったなぁ。オチが付かない文章を公開するのは気が向かない。「落とす」って言葉の心象はなんだろう。「信用を落とす」、「単位を落とす」、「お金を落とす」。どうやら「落とす」の対象になるのは、価値がある物のようだ。そうか、そうか。なら、「落とさない」方がいいんだね。それなら、オチなくてもいいや。むしろ、オチないほうがいいとも言える。なんて、無理やり納得して筆を置くことにする。
最後に本当のオチ。一通り書き終えた後、「沸かす」で検索すると、こんなページがヒットした。ホウホウ、「結果目的語」などという文法用語があるんかいな。なんか、似たようなこと言ってるなぁ。「花瓶を割る」とかほとんど「花瓶を壊す」と同じ例じゃん。やっぱり、ちゃんと正統に勉強しないとだめだね。結構いい線行ってると思ったのに、世間では既知のことであったようだ。でもなぁ、「沸かすは結果目的語をとる動詞だから」が答えでは納得できんぞ![4][5]
- [1] そもそも水の状態変化が摂氏の定義である。
- [2] ここの因果関係は実際には逆であろう。つまり、状態の前後で、変化後の物に価値がある場合が作る系の動詞に分類され、変化前の物に価値がある場合が壊す系の動詞に分類される。なお、「作る系動詞」や「壊す系動詞」は私の造語であり文法用語ではありません。
- [3] 心的描像の話である。物理的な変化は同じである。沸かすという場合、価値ある湯を新しく作り出すことに意識が向かい、沸騰させるという場合、もはや水ではなくなってしまうことに意識が向かう。
- [4] 例に挙がっている「ヤカンの水を沸かす」が成立する理由も、より価値を感じるものが目的語に選ばれるとした方が通りがよいと思う。ナベの水ではない、バケツの水でもない、ましてやドラム缶の水ではない、ヤカンの水こそが湯に変えたい物であるとの含意から、心理的にヤカンの水は他より価値が高い。よって、ヤカンの水と限定された場合、「沸かす」と結びつく余地が生じうる。逆に、バケツやドラム缶の水なんぞ沸かすに見合うだけの価値が感じられないのである。
- [5] もう一例。花瓶の場合、割れると価値を失う。よって価値のある花瓶が目的語となり、割れた後のガラス片は目的語にならない。「花瓶を割る」とは言えるが、「ガラス片を割る」とは言えない。しかしながら、割れた方が価値が高いものがある。例えば薪である。割る前の丸太よりも、割った後の薪の方が価値が高い。よって、この場合は「薪を割る」と言えるのである。本来、壊す系の動詞であれば変化前に価値があるのだが、丸太と薪ではこの関係が逆転している(結果として「割る」が「作る」に近い意味を持つ)。「割る」は普通の目的語をとる動詞、「沸かす」は結果目的語をとる動詞なんて言うのより、心理的に「価値を感じるものが行為の対象として選択される」とした方が理論の適用性が広い。