春は悲しい
#2
た(Ta)
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春は悲しい。そう聞いたのは3月の半ば、桜のつぼみがふくらみつつある季節だった。一瞬、私はキョトンとした目で相手を見返したのではないかと思う。春は楽しい。そう思い込んでいた私にとっては意外な言葉であった。春は命芽吹く躍動の季節。梢には花が咲き、虫は冬眠から目覚め、動物たちは厳しい冬を生き抜いた恩恵に浴する。白い閉鎖された世界から、青い開放された世界へ。それまでの私にとって春とは、何もかもが嬉々として動きだす喜びの季節のはずだった。しかし、考えてみれば、これらは絵本や童話によって、幼少時から植えつけられたイメージにすぎなかったようだ。
春は別れの季節らしい。卒業式を初め、人が別れるのは春なのだと言う。家族や恩師、友人たちとの別れはいつも春にやって来るのだ。そして、好むと好まざるとに関わらず、それまでの安らぎの空間を捨て、何も知らない新しい世界に放りこまれる。眼前に広がる見ず知らずの社会に対峙することは、怖れであり、不安であり、悲しいこと以外の何者であろうか。言われてみれば確かに納得できる。ただし、これらは性格による部分も大きかろう。個人的には、春は出会いの季節であり、未知なる世界は不安より好奇の対象として、自分の心の中ではまだまだ好意的に受けとめられている。しかし、春の悲しさについてとても共感できたのは事実だし、それはまた、春が悲しいことが真実であるからだと思う。別れと言えば、クリスマスやお正月を前に即席で出来たカップルも、バレンタインデーやホワイトデーを過ぎると解消することが多いらしい。悲しいかどうかはわからないけど、これもやっぱり別れの春だね。
春が悲しいとの認識を得た今、さきの幼少時のイメージも再考する必要があるだろう。梢には花が咲き、虫は冬眠から目覚め、......。本当か?本当はもっと眠っていたかったのではないか?そもそもヘビは望まない春を前にして、嫌々、居心地の良い巣穴を後にし、弱肉強食のそれこそ大変な世界へと追いやられただけではないのか。桜[1]にしてもそうだ。何を好き好んで満開の花を咲かせる必要があるだろう。木々の寿命は半永遠で、そもそも人為的な挿し木で増えるにもかかわらず、桜という宿命から無意味に花を咲かせているにすぎない。クマだって出来ることなら冬眠を続けたかろう。腹が減るから仕方なく起きだすだけで、我慢できない空腹ならヘビでも食う[2]かもしれない。寝てればいいのに、まったく無駄なことで、どうやら、春はちっとも楽しくなんてなさそうだ。
さて、私は意外な言葉にしばしキョトンとしてしまったわけだが、表面上の会話はそれとなく継続しつつも、頭の中では徳富蘆花の「自然と人生」からの一節を思いだしていた。
雨は人を慰む 人の心を医す 人の気を和平ならしむ
真に人をかなしまむるものは 雨にあらずして風なり
飄然として何処よりともなく来り 飄然として何処へともなく去る
同じことに二つの解釈があったり、想定と違う解釈に出会うことはたまにある。大抵はどちらかが間違えていたり、実は同じことではなかったりするのだが、極稀にどちらも正しいことがあり、時間の経過とともに感性が変ることもある。子供の頃、遠足や運動会といった楽しみを奪う雨は悲しい天気の代表であり、気持ちのよい風は気持ちを前向きにさせる清涼剤であったものだが、いつの間にやら、雨に心落ちつき、風に寂寂とする自分がいる。これと同様、春の悲しさが反意のように思えて、すんなりと受け入れられたのは、意識しないまでも、もともと経験されていた事実だったからなのだろう。「君の笑顔は悲しく、僕の涙は嬉しい。」小説や映画のワンシーンでなくとも、このような体験は皆がしているに違いない。
春は悲しい。彼女がそう言った日か、後日であったかは忘れたが、すでに三度のデートを好感触で終えていた私はさっそく告白することにした。断わられた場合のリカバリープランも含めて、事前の脳内シミュレーションは完璧だ。確度八割、失敗しても二の矢はすぐに継げる。期は熟した。行け。
「付き合ってくれないかな?」
「嫌です。」
はぁ?えーと、いやいや、せめて断わる場合でも、「ごめんなさい」や「もう少し考えさせて下さい」じゃないの?「嫌です」って、あーた、私のリカバリープランもろとも大崩壊ですよ。
春は悲しい。